二度と帰らぬ想い出は、故にこそ、なべて悲しいものです。

   白雅の美術館に戻る 総計電話占い  今日占い  昨日カウンター
スキー 
越後の国十日町、ここは名にしおう豪雪地帯。4メートルを超えた雪が頭上はるかに圧し掛かる。
4歳で父をなくした私には、ランドセルはもとより、授業に使うスキーなど夢の夢であった。授業といえば、教科書が買えなくて、上のクラスのお下がりの教科書。当時は戦後教育の試行錯誤の時代でもあって毎年のように訂正が加えられるため、友達のにある挿絵がなかったり、同じ文章でもページの位置が違っていたり。
スキー、冬の体育の授業は、屈辱を眼前にする悲しい日々であった。ある教師は言った「スキーが無かったら、かんじきを履いて皆の後から追って来い」と。以来、体育授業のある日は登校しない私になった。
今、いじめの問題を思うとき、その最初のきっかけを作るのは、学校の教師であることを私は知っている。  
幼児体験 
祖父は熱心な八海山行者であったらしい。いわゆる山伏である。私が生まれる前に亡くなっていたので、残された法具でしか伺うことはできない。祖母は昔ながらの、迷信が混在したままの、愚直な信仰者で、その般若心経が私の目覚まし時計であった。
幼児に父が急死してから、母のほか、13歳を頭に男の子ばかり5人、弟は生後3日であった。合わせて7人家族の生活は祖母の肩にかかった。祖母は小学校の用務員や、世間から厚く信頼されていた産婆の腕で懸命に働いた。折からの戦後のベビーブームで遠く離れた隣村も含め、産婆は引っ張りだこの忙しさであった。
母?。母は産後間なしの父の急死のショックが強く、偏頭痛に悩みながらよそから借りた畑地耕作に専念した。
木羽「こば」という板屋根職人の父の収入は潤沢であったらしいが、親分肌の父は、散ずる機会も多く、家を新築した直後でもあり、見かけほどの蓄えは無かったのである。
それまで、私は弟が生まれる前の末っ子で父の愛情を一身に受けて、乳母が付けられていたほどだったが、その乳母は、近所の同級生の家に代わっていった。私は乳母を見るたび随分泣いたらしいが、乳母も「その家の手前、私を無視しなければならないことがとてもつらかった」と、30数年後に再会たとき、しみじみと告白したものである。
つまり、私は4歳になったばかりの春、天国と地獄を体に叩き込まれる体験として味わったことになる。   
 
昔の人はよく動物に化かされたという。狐、狸、獺などが代表だろうか。迷信ぶかい私の祖母などは、そう言う体験をよく語っていた。私は子供のとき「蛍に化かされたことがある。」と言うと、マサカーと思う人もいるかもしれない。こう言うことです。
小学校入学前であることは確かだが何歳のころかは覚えていない。、私の故郷の村を還流する巾5メートルほどの羽根川と言う川に、農薬を使わない昔はあふれるように蛍が発生した。4歳上の3兄、7歳上の2兄、ほかに5、6人くらいで蛍取りに出た時のこと、私の前に今まで見たこともない巨大な「野球のボール状」の青白い光が浮遊している。今にも手を伸ばせば取れそうに思える。私が進むと、スーと1メートルほども遠ざかる。夢中になって追っているうちに、いつしか仲間から離れていることに気づかなかった。覚えているのは、川筋からコースの外れた方向違いの、私の家の墓地の前で発見されて以後のことである。居なくなった現場からは1キロほど離れていたろうか。
私の居ないことに気がついた兄の報告で、集落の消防組が捜索しに入って見当違いの方角に居た私を発見するまで、決して短い時間ではないと思うが、私の記憶は、巨大な蛍を発見してから、墓地の前で発見されるまで、何も残っていないのである。
例によって、迷信ぶかい祖母は、「父が逢いたいと思って招いたのだ」と、納得できるような、できないような解説をして、一件落着となった。
私は、近頃のオカルトをはやし立てる風潮は嫌いである。人はそう言うものに振り回されるべきでないとも思う。ただ、それを頭から否定しない。そういうこともあろうかもと思う。しかし、宗教はオカルトと結びついてはならない。特に仏教とオカルトは次元の違う話である。こういう仕事上、正気で人に語れば憫笑を買うようなさまざまな経験をするが、それは私の体質の問題で、仏教とは何の関係もないことである。
 

翡翠というものは姫川のヒスイが有名である。、あまり上質ではないというが、「羽根川ヒスイ」云う物がたまに発見される。新潟の銘石では、姫川の翡翠、佐渡の赤玉石、八海山石。一県で3種類もあるのは珍しいという。  
 ひな祭り
雛祭りが終わりました。私は男ばかりの5人兄弟で、子供も男の子3人なので、お雛様に縁がありません。しかしながら、3段飾りくらいの雛人形を強烈にほしいと思っております。どなたか、中古品ありませんか。できれば諸道具のそろったものがありがたいです。
日本には四季の移ろいに伴うさまざまな行事が多くあります。私は幼児期に父が死別したため極貧の中で育ちました。ために、四季の行事を体験するどころではなかったのです。
私が過去に出版した「祝い絵歳時記」や「四季の行事絵」を見てくださった人は、私のことを環境豊かに育ったと思うでしょうが、幼いころの憧れの裏返しに過ぎません。
社会主義国の問題も多く目にするこのごろ、あのようにとは思いませんが、せめて、貧しいものに日のあたる社会を望んでやみません。 
 春彼岸
豪雪地の春彼岸は村の墓地にある我が家のお墓を掘り起こすことから始まる。
船が停泊するとき特徴のある目標を3点選んで自船の位置を測ることを「山たて」と言うそうだが、同じ事を行うのである。つまり、あの木とこの木というように、目標を3点選んで、その下にわがお墓があると言うつもりで掘り返す。当然ながら狭い墓地のことで、少し狂っただけで他人のお墓を掘り出してしまう。確立は3割くらいか。
特に雪の深いときはどこの家も掘り出したりしない。こことおぼしきところに雪の祭壇を作り、花など無いから、固いつぼみの雪椿を雪に差し込むのである。私の子供のころは彼岸と言っても、まだ4メートルの雪は普通であった。しかし、わずかに感じる春の気配に胸躍らせたものである。それはそっくり「早春譜」と言う歌の歌詞そのままであった。  
 
絵のこと 
 私が描く絵の細密さに人はよほど器用な人間と思うらしい。私の指は確実に他の人よりも1センチは短い。息子と比べると1センチ5ミリも短いのである。そのために、昔友達とバンドを組んだときに、ギターができないためにマンドリンを選んだくらいである。
何度も書いてひつこいと思われるか知れないが、子供のころに玩具などなかった。新聞を取っていないから家には紙が太古のように貴重であった。父が習字の練習に使った多くの和紙は障子紙と化した。
私がした落書きは雨にさらされた縁板。雨戸の内側。外の石ころ。地面に折れ釘で描く事が一番多かった。
私の祖母の兄弟に大和絵を描く田舎絵描きがいたためか、何事にも厳しい祖母も、絵を描くことだけには甘かった。「祖母のしつけの厳しさは後でまた書こうと思う。」
私の幼児の文化的環境は斯く貧しかった。友達から借りてみる、少年雑誌の中の華麗な挿絵。それは夢にさえ見る美しさだった。
その渇きを、今自分で描く事で自分を癒しているのかもしれない。
 
しつけ 
私の祖母は厳しい人であった。父が居ないからこうなった。と人に言われまいとしてか、他の兄弟より私には厳しかったようである。
呼ばれて立ち上がるときそのまま立つと叱られる「身の回りのごみなり、何なりに気を配って立てと言う」
二つ返事、迷い箸、等、等、なかでも下半身に関する言葉、下卑た言葉、人を傷つける言葉は禁句であった。
そのとき祖母の手元にあるもの、キセル、火箸、火吹き竹、箸。間髪を入れずに飛んでくる。
私は必然的に萎縮し、祖母のみならず、人の顔色ばかりうかがう、陰気な子供となった。
中学生になったとき下村湖人の「次郎物語」を見て、主人公の次郎に自分を重ねあわさずにいられなかったのである。
卑屈さは、卑怯な人間を育てる。祖母に気に入られたいと言う思いは、みえすえた行いとなり、それを見抜かれてより叱られるのである。
向学心の強い祖母は、本を読むことと、絵を書くことには寛容だった。私が子供のころ、人一倍それに没入したのは、祖母への追従でもあった。肥えたごを背負い、薪を背負い私は本を離さなかった。そんな私を見て、村の人はこうあざけった。「今尊徳でもあるまいに」尊徳、つまり二宮金次郎のことである。
祖母は83歳でなくなった。その3年ほど前に家の後継ぎとなった私が結局死に水を取ったのである。
通夜の席のこと、隣家のおばさんが言った。
「あの子は父親が亡くなる時、特に大事に育てるように遺言され、ほかの子よりも厳しくしてきた。そのためか、一時はひねくれて、何を考えているか分からないことが多かった。ところが、人は変わるものだね。見放してはならないものだね。こうなってくれと思ってしつけたことが、すべてあのこの今になっている。」
とおばあちゃんは言っていたよ。あんたおばあちゃんによくしてくれたものね。
私は子供のときから泣かない子供であった。小学生のころ「泣かない」ことで苛められた事さえあった。
そんな強情我慢の強い私が、隣のおばさんの言葉に、大粒の涙を禁じえなかった。

今、しつけといじめの問題がかまびすしい。祖母が私にしたしつけは、傍目にはいじめとしか映らないだろう。
事実そのために、私はゆがみひねくれ、人生を大回りした。
しかし結局祖母のところに帰り、祖母に抱かれると同時に祖母を抱いたのは、打たれ、叱られながら、その奥に深い祖母の愛情を感じていたせいではないであろうか。
余りにも深すぎて、子供のときにわからなかったその愛情が、成人した私を祖母の元に返らせたのだと思う。
  
 叔母 
 昭和38年,中学校を卒業した。
団塊の世代は人数が多く、高校の試験で受かる確率は5人に1人といわれた時代であった。比較的成績の優秀といわれた私に、祖母も、3人の兄も、進学せよという意見が多かった。ただ一人の反対者は祖母の長女、隣村に後妻で行った叔母であった。
婚家との折り合いが悪く、1ヶ月に1度くらいの割合で逃げ帰ってきては、大酒を飲み、人と世の中をののしり呪う人であった。また、えこひいきの強い人で、我が家では長男だけをかわいがり、ほかの二人の兄はすでに歳もたけ、3歳下の弟は幼すぎ、結局絶好の餌食は私であった。
「この子は目が怖い。人をじっと見る癖がある。何を考えているのかわからない。」
すべてが気に入らないという目で見れば、私のすることは何をしても意には添わないらしく、その嗜虐性を満足させるに理由はいらないのだろう。酔いつぶれて眠るまで、私に肩をもませながら私をののしった。
祖母のしつけの厳しさに,「ひねくれた」私を見ていたのだろう。
「こんなひねくれた者に進学させたら、とんでもない悪知恵を助長させるだけだ」
叔母が私の高校進学に反対する理由であった。なに、叔母にとって、反対の理由は何でもよかったのだと思う。
私は結局進学しなかった。叔母の反対などどうでもよかったが、すでに就職していた3人の兄に、そういう負担はかけたくなかった。また、すでに東洋的な思考方法に魅せられていた私には、現代教育に、さまで魅力を感じなかったせいもある。

前期の叔母は、それから3年後亡くなった。その前に,何の病気か,かなりの大病で入院したことがある。
16歳で東京に就職していた私が、お盆で規制したとき病院に見舞いに行くと、。
「誰も見舞いに着てくれなかった。お前だけが来てくれた」
と激しく泣かれたものである。
 
叔母と怪異と 
18歳。そのとき十日町に帰り、織物会社のデザイン室に就職していた私は、いつとはなく叔母の存在を、退院してからしばらくたっていたので忘れるともなく忘れていた。
すべてのことに思い入れの強い叔母は、私が18歳の春に亡くなった。その前夜、今はどういう夢であったか忘れたが、悪夢に1晩中襲われ、輾転反側眠れぬ夜であった。。
翌日、東京にいるはずの次兄が、織物会社にいた私を尋ねてきた。
私は顔を見るなり「叔母さんが死んだのか」と言った。
それは予感を口にしただけだったが、兄は、もう、知らせは来ていたのか?と驚いていた。
私には、そうした予知能力があった。後年、絵仏師には不要なものとして、自らそれをことごとく封じることになる。
葬式には、まだ私が正式に家を継いだわけではないので、次兄が行った。

怪異はそれから2年間、叔母にとって母、私にとって祖母が亡くなるまで、真夜中に天井裏を歩き回る「足音?」として続いた。
織物会社の男子寮にいた私が8キロ離れた家に帰るのは一週間に一度である。
はじめは何事かと思い。子細に家中を点検したが、音がするだけで何も原因はわからない。
祖母に、何のせいだろうと聞くと、
「あれが亡くなった日から毎晩のことだ。自分の子供だと思えばなんとも思わない」
と、平然としたものであった。
結局原因は最後までわからなかった。そして二年後、私が20歳の秋、祖母が亡くなった日をもって,止んだ。
私にとってはつらい、性格の思い入れの強い叔母であった。

10数年後,叔母の婚家で,引越しに伴って墓地の改葬があった。昔のことで,火葬場ではなく、村の焼き場で木を積み重ねて焼いたものであったので,原型に近い「お骨」を私が掘り起こし,白木の箱に入れて私が抱いたのである。あれほど叔母に憎まれ,排斥された私がである。
私の本名の字画は「墓守相」だと言う。さもあらばあれ,愛憎を超えた人生の真実は、ここにある。
 
藁布団 
私が子供の頃、多くの家では藁布団というものを使用していた。言うまでもない、綿が高価であったせいである。いまどきの人には理解できないと思うので、説明をすると、その頃の農家ではコンバインなど無かったので、手作業で刈った藁がふんだんにあった。(私の家は農家で無かったのであるが、他人の家の藁を天井裏に預かっていた。)
藁細工は主に農家の冬仕事である。私の家でもそのための7畳ほどの1室があった。部屋の隅には床下に大きな石を据えその頭部が出るように床板を切り抜いてある。それを常場石(じょうばいし)といった。
藁をこの常場石の上でたたいて柔らかくすることが、すべての藁工芸の基本である。たたいた藁はクズという。
これ以上柔らかくできないまでたたいた藁を、大きな木綿の袋に入れると藁布団の完成である。一名クズ布団とも言う。これは意外と暖かいものであるが、その性質上掛布団にはならない。あくまでも敷き布団である。
私の村でより貧しい家では、布袋に入れないで、そのままクズを床に引いて寝ていた家もあった。
冬は暖かいといっても、これはのみにとって絶好の棲み家である。夏には寝ていられないほどの大繁殖を見た。やむなく夜中に起きだし、DDTの粉を厚くまく。薬害のやかましい現代人には、話を聞いたばかりで怖気を振るうことと思う。しかしその頃はどこの家でもそうしていた。
小学校の身体検査のときなど、パンツのゴム跡の食い込んだ赤いところをボリボリ掻きながら、体重計にあがったりする。見ればどの子供も、ノミに血を吸われたしるしの斑点(蚤クソ)が下着についているのが当たり前の時代であった。
私の家では、弟がいつまでもおねしょをしていた。藁布団は水分を吸わないので、床にそのまま透ることになる。露時などそこによくきのこが生えた。20歳前後に、松本零士の「男おいどん」という漫画を見ていて、「さるまたけ」と名づけられたきのこに、なんとも言えない懐かしさを抱いた。

藁布団が消えたのは、もはや戦後ではないといわれた、やはり昭和30年頃だろうか。懐かしいとは思っても、戻りたいとはとても思わない。
一様にきれいな家に住み、飽食といわれる現在だけれど、わずか4〜50年前までは、まだ日本にはにはこんな未開のところがあった。 
 
 
母は隣村のそこそこ素封家の一人娘であった。そのせいでもないであろうが、5男を産んでわずか4日目に父が仕事先で急病死して、当時中学2年の長男を筆頭に、男ばかり5人の子供を育て上げるという苦労をした割には、87歳で亡くなるまでの生涯を通じて、諸事くよくよ思い悩むことをしない動作のゆったりした人であった。
そのために、他人は否、子供でさえも、母に面と向かって、「馬鹿」とさえ言った。母は「私は頭が悪いから」と笑っていた。そしてその「私は頭が悪いから」が、母がなくなるまでの口癖であった。
祖母が女丈夫で、産婆という立場からも、村の若い妊婦の身の上相談まで引き受け、父が亡くなった後、八面六脾の活躍をしていたので、その存在はますます影の薄いものとなった。
後年「どうして目立つようなことをしなかったのか」と問うと「おばあちゃんに任せておけば楽だったから」と言った。家庭に二人の主婦は要らないということを、生地のままで知っていたのだと思う。それはそのまま私が妻と結婚した翌日から現れた。
一切家事に口を出さないですべてを妻に任せ、19歳という若さで来た妻のいたらないところはそっとサポートしておく母であった。妻の知らない昔風の料理を、教えると言うのではなく、喜喜としていっしょに作ると言う形で教えていた。そして、妻が母にしたどんな小さな行い、朝、髪をすいてやることや、母の布団の上げ下ろし等を、さも嬉しそうに人に話すのであった。そう、母は決して他人の悪口を言わない人であった。
私が絵仏師になった当時、生活はかなり貧窮した。
見かねた東京にいた次兄が、母を東京に連れて行き、会社の留守番と言う名目で、老人にしては多額の給料を母に与えた。次兄は独身で、母の田舎料理に満足していたのでもある。
母はお盆に1ヶ月ほど里帰りすると、蓄えた多額のお金を、小遣と称して私や妻、子供に与えた。
母は東京で、いつのまにか近所の老人に慕われ、東京の次兄の家は老人の溜まり場となり、その人々の家庭内の揉め事のほど良いすて場所となった。
私の母は相談に乗るほど知恵の回る人でなかったので、ただ、相手の話に聞き入るだけであったらしい。老人たちは、絶対に他言することなく話を聞いてくれる母に、充分な癒しを得たのであろうか。

平成13年5月3日、母は東京の日大板橋病院で膵臓ガンと診断され、自分では、ただのたちの悪い風邪と思ったまま、弟と私が迎えにいった車に乗って帰ってきた。
地元の病院では、「この病気は最後に苦しみますよ」と、先生は私に告げた。
私はその覚悟で、車椅子を買い、紙オムツを買い込んだのである。しかしそれは無駄となった。東京から自宅に帰って2週間ほどして、昼寝をしたまま母は二度と目を覚ますことはなかった。
死因は脳梗塞である。母は意識のないまま2週間眠りつづけて同年6月1日亡くなった。それは、苦労多かった母に、膵臓ガンの苦しみがくる前に、脳梗塞で意識をなくさせてしまうという、天の与えた祝福であると私は受け止めている。
母が病気で田舎に帰ったことを知らない、東京の老人たちは、次兄が仕事に出て鍵のかかってしまった門の前を、むなしく行ったり来たりしている姿が、母の死が周知されるまで、かなり長いこと見られたという。

私は思うのである。「人の幸せは、小ざかしい知恵や頭の働きにあるのではない」と。
私の師僧である菩提寺の住職はそんな母に「慈観益法信女」と戒名を授けた。「慈」も「観」も観音様の名前である。母は、観音様の名前を二つ重ねていただいた。
そう、、私の母に、大姉や院号は似合わない。この戒名は、母の生き方に対する、最大の勲章であると私は思う。
そしてそこに、山本周五郎氏の小説「さぶ」にも似た、生き方のひとつの典型を見るのである。 
 
 やけど 名前
私は3歳のとき囲炉裏にはまっておおやけどをしたことがある。幸い左足のすねの部分であるので、外見上はまったく分からない。3歳のその時のことは他のことは全然思い出さないが、その瞬間の情景だけは覚えているから不思議である。母は囲炉裏に背を向けて台所で洗い物をしていた。そして囲炉裏には母が洗濯に使用するお湯を大鍋゛で沸かしていた。ということは春か秋、どちらであったのだろう。2月生まれの私が3歳のことを覚えているとすればおそらく秋の、水の冷たくなった季節であろう。
頭でなく足がはまったというのはどういうはまり方をしたのか、左足のすね一面に今でも白い白斑が残っている。

16歳の時、東京から帰ってきて織物会社に就職し独身寮に入った。土曜日の夕方8キロ離れた家に帰るべく歩いていると、幼馴染が後ろからバイクで近づいてきてきて、後ろに乗れという。その頃はまだ未舗装で石ころ道である。大きな石ころを避けようと右足を引いたとたん、後ろの車輪に右足のかかとが巻き込まれた。靴が半分にちぎれ、かかとの骨が露出するまで切れた。アキレス腱に支障が無かったのがもうけものであったが、縫い合わせていくと肉が足りないという。すぐ上部の肉を移植したのだが、うまくゆかず、もう一度やり直しをして、2ヶ月の入院。いまでも、座禅は支障無いけれど正座は長くできない。
とにかく、虫垂炎・腸閉塞・後ろ首の腫瘍の大きな手術跡、等々、私には足の先から頭まで、大小無数の傷がある。ばらばらにされて捨てられても、これほど身元確認しやすい男はあまりいないかもしれない。

姓名判断というものがある。私の本名の画数は石田光成と同じで、体に刃物が入る相だという。墓守相だともいう。私の本名は、生まれた日が紀元節(建国記念日)のために、紀・元・節の字の一文字をとってある。私は以前からこの本名が大嫌いであった。そのわけは後で記すこともあろう。

画家になろうと思ったとき、自ら雅号を白雅と称した。白は清浄無垢を表す。清浄無垢を汚す絵はあえて描かない。という誓いがこめてある。
在家得度したとき、「大雲泰弘」という師の僧から、庵号「大峰」をいただき、戒名は大峰白雅という。
今、竹内白雅を称して世間でもそれで通し、本名を使うことはほとんどない。自分でも自分の本名を忘れることがある。
私は占いとか、姓名判断とかをあまり信用しない男であるが、雅号が世間的に通用するようになってから、怪我をすることが無くなったのは事実であるので、そういうこともあるのかなと、少し思うようになった。  
 
竹内白雅 
昭和23年2月11日 紀元節「建国記念日」十日町市六箇に生。父、頼尊、母、マスの4男。 
  38年 浮世絵に引かれる。好きな画家は鈴木春信の清楚、長文斎栄之の上品。まだ葛飾北斎は理解できず、安藤広重は甘すぎ、写楽は奇矯、栄泉は隠微、清長は健康に過ぎ、歌麿はついていけない大人の世界との感想を持つ。後年画家になって北斎に熱中。葛飾派の影響を多分に受ける
雅号「白雅」を称す「白ほど清浄なものは無い。清浄を汚す絵なら描かないほうがよい」という意味」。 
   39年 浮世絵に引かれる。好きな画家は鈴木春信の清楚、長文斎栄之の上品。まだ葛飾北斎は理解できず、安藤広重は甘すぎ、写楽は奇矯、栄泉は隠微、清長は健康に過ぎ、歌麿はついていけない大人の世界との感想を持つ。後年画家になって北斎に熱中。葛飾派の影響を多分に受ける
雅号「白雅」を称す「白ほど清浄なものは無い。清浄を汚す絵なら描かないほうがよい」という意味」。
   40年 家庭の事情で帰郷 大手織物会社デザイン課「当時は意匠部」に入社 剣道、ランニング(一日20キロ前後)、マンドリンに熱中
   41年 人生に懐疑、懊悩中、紀野一義著「禅ー現代に生きるもの」を発見。読書百遍。3年ばかり他の人の著作を放擲、紀野師一辺倒。
   42年 たまたま上京した日に、偶然師の講演会が当日と知り天意を感じて即面会、出家の意を伝えたところ「絵を描くのが仕事なら、「絵の中に仏道がある」と諭され、以降、師に師事。仏道とその世界の研究三昧。結局、「仏教とは「大いなるこころの」前に小さな自我を捨て去り、ひたすらに素直になる道でしかない」と悟る。
   49年 退社、染色デザイナーとして独立。50年結婚
55年2月 惑星直列観察中 「啓示」 仏画家に転向。平安時代以降途絶えていた呼称「絵仏師」を称す。
平成1年  日貿出版社より「祝絵歳時記-吉祥画のすすめ」出版 
   2年 日貿出版社より「墨絵による-四季の行事絵」出版  
平成 3年 得度 師田村泰宏 戒名は雅号、白雅の上に庵号 大峰をいただいて「大峰白雅」
  19年 日貿出版社より「七福神を描こう」 泰雅と親子共著出版 
平成20年   千葉県茂原市早野503-2の現住所に移転 (西暦2008年12月19日金曜日) 
平成27年    日貿出版社より「観音さまのぬり絵巡礼」 泰雅と親子共著出版  

一期一会を大切にして画業に没入。葛飾派と琳派を取り入れた独自の技法で全国展開。年に1~2度ジグソーパズル。通信販売会社から仏画発売。注文を受けてからの直接制作のため自宅に一枚も作品がないことがあり、10年前から個展等できない状態。
趣味等 *読書はほとんど病気 好きな作家は山本周五郎、司馬遼太郎、吉村昭、山手樹一郎、4年ほど前から内田康夫。下村湖人「次郎物語」は幼年時代の体験とダブルところが多く、全巻を今でも時々読み返す。後は活字でさえあれば何でも、仕事以外は字を見ている。
*洋画 日本の映画は好まない、*音楽 明治から昭和50年ころまでの歌謡曲収集は膨大、ロック系ジャズ系まで。近頃の酒場演歌大嫌い。カラオケ大嫌い。

*人も知る大酒家の家系ながら、いつのまにか飲まなくなって10年程経つ。1年にビールの缶にして1、2缶*煙草はセブンスター1日2箱ほぼ40数年のヘビースモーカなるも、平成6年7月10日禁煙、現在に至る
*ベジタリアンではないがやや近い。
家族 家内と子供、男ばかり3人。昔は、犬「狆、雑種」金魚、チャボ、インコ、十姉妹等。 今はメダカのみ。
    19年 日貿出版社より「七福神を描こう」 泰雅と親子共著出版
竹内泰雅 
昭和52年 6月17日白雅長男として生
父に似ず絵を描くのが大好きで、幼児から膨大な資料に囲まれていたため得に東洋の絵「神仙画」に詳しい。父の不得手な水墨画が得意。京劇好き。16歳のとき、某デパートで父子展、人気を博す

 ホームへ
inserted by FC2 system