我が青春のメモリ
阿修羅慟哭編
「阿修羅」については私が拙文を云々するより,紀野一義先生の的確な文章を無断ながら引用させていただく。

   ーももともと阿修羅は悪魔として天に対立するものであった。それを仏法の守護神として仏教徒が取り入れたものであるが,その善と悪の対立を,人間の善性と悪性の対立相克と言うふうに置きかえたのである。(業の花びら)より
ー仏教徒はこれを取り入れるときこんなことを考えた。
 人間は心ではいいことをしたいと思いながらズルズルと悪いことをする。努力をしたいと思いながらズルズルと本能に負けてしまったりする。そうして苦しむ。

   その二つに分裂して苦しむ心こそ阿修羅ではないか,と。(中略)つまり仏教のほうでは「修羅」と言えば、それは、心が二つに分かれて戦っている状態である。どんな風に二つに分かれるかと言うと,一つは動物的な小さな虫けらのような魂,もう一つは宇宙と同じくらいな、壮大な魂である。(仏との出会いー迷える詩人宮沢賢治より)
 その二つに分裂して苦しむ心こそ阿修羅ではないか,と。(中略)つまり仏教のほうでは「修羅」と言えば、それは、心が二つに分かれて戦っている状態である。どんな風に二つに分かれるかと言うと,一つは動物的な小さな虫けらのような魂,もう一つは宇宙と同じくらいな、壮大な魂である。(仏との出会いー迷える詩人宮沢賢治より)

ーそう言う内心の争いが興福寺の阿修羅像にまことにあざやかに描き出されている。
  こういう内面的な分裂から真の人間として成長していくのである。六本の腕の中、天をささえるかのように差し上げられたi二本の腕,これは向かって右側の顔に相応している。遠いかなたを見つめて夢やら希望やらほのかな恐れやらが渦巻いているような顔である。こういう青春の混沌たる時期には、天を差し上げるような腕の姿がふさわしいであろう。しかし、まもなく自分の無力を思い知らされるときが来る。それが横にだらりと下がってきた腕であり,向かって左の今にも泣き出しそうな顔がそれに相応している。そして最後に正面の顔,合掌した両腕が来る。自分の無力を知って,力なく垂れ下がった腕は,やがてひたと合わされ自分を活かしてくれている大きな力に向けられる。双のひとみもひたとすえられている。天地も静止したというようなひとときがそこにあって、見るものを動けなくさせるのである。
 興福寺の阿修羅像ばかりではない。こんな顔をした人たちは、私どものまわりにはたくさんいる。そしてわれわれに、人生とは何か,生きるとは何かをしみじみと考えさせてくれる。そういうあり方を教えてくれる働きこそ,観世音なのである。(業の花びら)より

・・咲子という女性にかかわった3年間の私は、まさに紀野先生の説く阿修羅の世界そのままだった。あまりにもそっくりなぞったので,わざわざそうしたのではないにしても,不思議の思いをぬぐい得ないのである。それゆえ、紀野先生の解説以外は蛇足ののような気もするけれど,ここでは,詩を理解していただくための要点だけを記してみたいと思う。

 祖母が亡くなり,しずえちゃんが故郷に帰った年の,まだそういう気配をぜんぜん感じていない昭和43年4月、北蒲原郡安田町出身の咲子さんが、私が勤めていた織物会社に入社して、当時、中振袖のデザインを担当していた私の部署に配属されてきた。
 18歳とは思えない「おばさんタイプ」の、容貌は中以下。そして、デザインにもっとも大切な感性というものが全然ない人であった。ただ,抜群に気はしだけはきいた。
 そのころの私はと言えば,しずえちゃんとの恋いの終わりがはっきりと予測でき,静かで透明で,むしろ一種不思議な安らぎさえ感じていたときであった。今思えば,そこに心の隙ができていたのかもしれない。しかし,その対象がまったく ゛しずえちゃん゛と対極にいるタイプの女性であったとは・・・・。そのときの自分の心理が,はるか後年の今になっても,ますます信じられないのである。
 私は一度として しずえちゃんを(性)の対象として考えたことはなかった。咲子さんに対してもまったく違った意味で同様だった。
織物会社の常として,960人前後の社員の3分の1が若い女性という環境であり,朝昼晩に社外に一歩踏み出せば,女性をかき分けなければ歩けないと言っても決して大げさでない,「ハタヤ」全盛の当時の十日町であってみれば,男女間の乱れは,目にし,耳にする日常にある。私とて体に不自由のない若い男である。それなりの欲望がなかったと言えば嘘になるであろう。
 しかし、毎朝の20キロのジョギングと朝晩200回ずつの竹刀の素振り、週に二度の剣道の練習。そこにもってきて毎朝しずえちゃんと交わす挨拶が,私を浄化したかのような日常だった。

 この年11月17日、しずえちゃんは去って行った。そして、私の中にうつろな隙ができた。
 ある日の夕方、独身寮にいた私のところに咲子さんが訪ねてきた。「今時分何を・・・」と訝りながら対面した私に、「・・・・さんを呼んでもらえますか」と咲子さんが言った。その相手の名前は社内でも知らぬもののない「女たらし」と言われている男であった。もっとも、数少ない男の奪い合いが常態の会社だったので,とくにその男が道徳的にどうこう非難されるものでもなかった。
 私が自分で驚いたのは,「・・・・さんを呼んでもらえますか」という咲子さんの言葉を聞いたときの,自分の心の動きであった。
 なぜ、自分が愕然としなければならないのか「恋い・・・・まさか咲子さんに・・・」私は電灯をつけるのも忘れ,両腕を枕に組んで仰向けに寝たまま,子細に自分の心の中を点検した。そして,我ながらいやいや認めた回答はその「まさか」であった。
認めはしたものの,うなづきたくない事実であった。
 私の心の中には,まだ充分に、しずえちゃんの事が,秋の残照のように余韻を残していた。私は無謀にも,咲子さんに動いた「恋と言う感情」を最後の最後まで認めても肯定しないで押し通してしまおうと決意した。
 いくら強情で一徹の私でも、まさかその無理が三年も続き,いささか精神状態がおかしくなるまでに私を追いこむことなどは考えても見なかった。「忍ぶ恋いこそ美しい」などという、とんでもない古人のせりふがある。私はそのようなことをほざいた昔の人に,今でも,「このクソたわけ」(すみません汚い言葉)と叫んでやりたい。
 自分の心にある恋心を、咲子さんにも他人にもわからないように押しつぶす。これは実際に行ってみると実に至難なことであった。
 まず、対象の咲子さんは私の部下であるから1日8時間は目の前にいる。当時は残業が常態だったので、それが10時間にも11時間にもなった。
その困難を一例だけ挙げてみると,隣の設計部という部屋から仕事の連絡にかこつけて油を売りに来る者がいた。短い用件を終わると,咲子さんのわきに座り込み,一時間前後の世間話が始まる。上司である私は当然そのことを注意しなければならない。しかし,私の中にある嫉妬心は、その注意の言葉を素直に口に出させないようにする。ようやく注意はするものの,その後で堕ち込む精神の葛藤は私をなおさら苦しめた。咲子さんへの恋を認めない以上彼女の存在を憎むことは自分勝手なそれこそエゴ剥き出しの事ながら,愛と憎しみの間を一瞬一瞬の間に行き来する心。紀野先生は一瞬とは1秒の60分の1それを一刹那(せつな)という。と教えてくれたが,その一刹那をめまぐるしく変化する自分の心は,まさしく阿修羅そのものであった。

     愛より愛は生ず。
     愛より憎しみは生ず。
     憎しみより愛は生ず。
     憎しみより憎しみは生ず。
           (増支部経典)より

 そのめまぐるしく変わる自分の心の正体を見極め,押さえ込もうとして私はヘトヘトになった。瓢箪で鯰を捕まえようとする禅画があるが,まさにそのころの私がそれであった。
 私がひたかくしに隠していても伝わるものがあるらしく、ある日咲子さんは私に言った。
 「心を安らかにさせるのが仏教なのに,あなたはそれを追い求めて,かえって悩みを深くしているのですね。」
 咲子さんは自分が当事者と思わないので言えたのであろうが,私にとってこれほどむごい言葉があるであろうか。そのころ私が悲鳴代わりに繰り返した祈りの言葉,それが次の釈尊の詩であった。

     己(おのれ)こそ
     己の寄るべ
     己をおきて
     誰に寄るべぞ
     よくととのえし
     己にこそ
     まこと得がたき
     寄るべをぞ獲(え)
           (法句経160)より

 なまじ仏教によって、人のあるべき姿を知っていたからこそ,人間の理想の姿と、現実の、日々にみにくく小さくなってゆく自分の姿のギャップ。私は真剣に現実から逃避と言われようがなんであろうが,出家することを思いつめた。僧として,純粋に揺れ動く自分の心と対決してみたいと思ったのである。どのようなものか分からぬながら,「悟り」というものに強烈な魅力を感じたのである。
 同時にまた逡巡するものがあった。家は、後継ぎの問題は、母は。そして何よりもやはり,現実から逃避して何ゆえの悟りか,と。そしてまた思うのである。釈迦は29歳のとき、後継ぎでありながら,父も、妻も、子供さえ捨てて出家したではないか。私は現実からの逃避は駄目だと言い訳を構え,自分をごまかしているのではないのか,と。
 こうなるともはや蟻地獄に落ちた虫である。咲子さんとの問題に出家したいとの葛藤が入り混じり,また,職場で責任ある身であるので,勤めて平静を装い快活に振舞わなければならないという。精神の二律背反。
 よくも狂わなかったものである。いや,一歩手前であったであろう。

 私はとりあえず私の心に一つのオアシスを求めた。それは、「二度と逢えなくてもいい」とさえ詩った事のある゛しずえちゃんの面影であった。そして別れて僅か半年後、吉田町にしずえちゃんを訪問したのは「西蒲原吟行」に詩った通りであった。
 そこに行ったところで何も解決しないことは分かりきっていた。しかし,そこに行くことで,かつての人を愛することによって、ますます透き通っていった自分がいたことを確認しなくてはいられなかったのである。
 咲子さんとの3年間にしずえちゃんを訪問したのは四回。そのうち3回は,精神が崩壊する危機が3回あったということである。そのときの私にとって「しずえちゃん」の存在こそ,精神の平行を保つ随一の存在であった。
    病葉(わくらば)
           ー 昭和43年7月ー
めくるめきの 静寂のとき
カサと落ちた わくらばの音
私にわたしを
気ずかせました
やめましょう 口づけだけで

緑をとどめて 落ちた葉が
風もないのに 落ちた葉が
私にわたしを 気づかせました
やめましょう 口づけだけで




あの人はまだ 私の中では
緑をとどめた わくらばなんです
恋散ってなお 私の中では
やめましょう 口づけだけで

誘ってくれて ありがとう
許してください 私の迷いを
自然に枯葉が 秋に散るまで
やめましょう 口づけだけで



          想いを逃れ
           
 
−昭和43年8月18日ー 

    善光寺平 初秋のススキ 
            茫々
(ぼうぼう)と揺れ 心と揺れ
                逃れ来た 恋の想いを
                    呼び覚まし 呼び戻すのか 

    千曲川 夕映えすれど
            熟れぬりんごの 薄青緑
                味わいの酢さ 人恋う苦さ
                    知れというのか 知らしめるのか





白い花
   −昭和43年10月10日ー
誰もいない 誰もいないところで
はさ木に匂う 稲穂にもたれ
乾ききった うさぎの糞や
苅田の畔(あぜ)の 落穂の数を
数えるともなく数えていた 昔の僕

それら 見るものすべてが
幻影に見えた 絶望のとき
尻の下の 松ぼっくりの
かすかな痛みだけ 実感だったが
それさえも 幾年月の流れに埋もれ
今は手にすることない 幻影なのだ



幻影から幻影へと 今が激しく移り行くのを
僕は どうすることもできないで
目もふさげずに 見ているだけだ
いつの日か 幻影となるだろう
僕の姿を 見ているだけだ

誰の心が移り 誰が去ろうと
風の吹くまま 風にまかせて
野菊にも似た白い花 揺れてるように
やがて初霜 冬枯れようと
ここにこうして 生きてる命を
見据えたい 歌い上げたい
    霧
      −昭和43年10月12日ー
無明より 生まれた恋は
輪廻して (は)つるを知らず


業ゆえに 深まる恋は
恋ゆえに 業に回帰す

はじめて知った 愛は憎しみ
はじめて知った 愛さえ罪だと

善智識 私に言うには
(ほとけの吐息 霧となり
すべてをつつむ 大悲となって)











私の吐息 自己だけだ
私の嘆き 大悲に遠い

霧巻いて 何も見えない
一歩さえ
歩けもしない
    沈黙
            
−昭和44年3月5日
深海の
駅のホームは
鮟鱇の 触手の光と
裸電球 ぼんやりともり
ベンチ 隈どる影もない

夜光虫 まばらに凍てつき
星の下 急行列車は
一瞬の 光と過ぎて
我胸に とどまる知らず

未練の 海をふわふわと
漂うは エイか海月(くらげ)
餓える 蛸は我が手足食(は)
旅人は 己苛(おのれさいな)







沈船の (いかり)のように
想いを 君につながれて
廃船の デッキの錆と
同時に 朽ちてゆくのだろうか

深海の 駅のホームは
仄暗い 町のはずれに
貝塚と 忘れ去られて
沈黙し 沈んでいるのだ

     冬の海
             
−昭和44年3月6日ー
冬の海 暗い飛沫(しぶき)
烏さえ 餌を捨ててさる
冬の海 暗さ知りつつ
訪れた 心洗いに
  (砂巻き返す怒りの姿 茫然と立ちつくすだけ)

砂の粒
頬を打ち
貝の殻 無残に白い
愛と憎 二つの地点を
(せわ)しく 修羅と駆け回る
  (動くな心 私もう疲れてしまった)




割れた
心の答え見えずに
(かえり)みる 黒い足跡
点点と 昨日に続き
明日は 荒海
進む道 どこにも見えない
   (磯づたい 平行線などもういらぬのだ)

何者か
私を海に突き落とせ
その力 貸す人なくては
ああ・・ 私は何もできないのだ
狼狽(うろたえ) 心に刺さる
松葉が 私を呼び覚ます
   (もう一度 もとから新たに歩いてみろと)

    奥能登恋情
       
(恋路ヶ浜にて)
            −昭和44年11月3日ー

風吹く
遠くの海のかなた
風吹く
昔の帰らない愛
波寄す
憂い誘うは波
黒波
はるかなる日々
・・・・・・・・・・・・・・・・・・






夜は更け
漁火(いさりび)燃えてても
夜は更け
胸の火燃えてても
潮路(しおし゜)
隔てて遠ければ
かそけく
冷えゆく我が想い

  奥能登恋情
       
(珠洲港にて)
         
−昭和44年11月4日ー

奥能登の 最果て岬の
晩秋陰
(かげ)ろう 渚の岩に
散っても散っても 寄せてた波が
ただそれだけで 恋に似ていた

雲低く 乱れて流れ
波高く 白く跳ねても
海と空 なすすべもない平行線に
潮騒しきり 泣く音に似て・・・







ひび割れて 崩れた港漁船一艘
ペンキ落ち 傾き錆びて
想いを君につながれた 私のように
海に染まらぬカモメの白さ 見つめているのか

沖に点点 いさり火の遠すぎるとき
残り火さえも消しきれぬ 恋の未練に
激しく寒く 震えて立てば
明日越える山々黒く 海に切り立つ
大悲の海へ

 「念ずれば花開く」という。また「悲しみの極まる時、心おのずから醒悟する」とも言う。
しかしそれは、棚から牡丹餅式に来るのではなく,それなりの大きな段取りと経緯と最大限の努力を経なければならない。それはあるいは、真正面に仏と対峙した者にしか与えられない,仏の「はからい」であり、それが、等しくほとけの大悲の海に漂いながら,浮かぶ者と沈む者の分岐点であると思う。
 私のために「ほとけ」が計らってくださった事をこれから述べよう。
 咲子さんとの事が3年目を迎えた昭和45年初夏。私は疲労困憊の極まりにあった。そのとき5人の部下を持ち、自分の心の懊悩を誰にも悟られずに秘し隠す心の二律背反。その無理が表に出てきたらしく,睡眠不足,意味のない独り言,そして我ながら愕然としたのが,会社の前にある石垣に,何度も何度も小石をぶつけている自分の姿に気がついたときであった。
 このときようやく私は思った。同じ日常を繰り返している限り,転機など望むべくもない。薩摩には,「泣こよかひっ飛べ」と言う言葉があるという。また、禅宗の言葉に「百尺の竿頭に至ったとき,手を離すべき勇気を持て」という。もう一つ,剣の奥義に「振り下ろす刃(やいば)の下こそ地獄なれ,身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という。
 私がした些細な日常からの脱却。それは留守の間の5人の部下の仕事が滞ることがないように手配をし,5日間の休暇を取ることであった。
 無遅刻無欠勤を通してきた私には有給休暇がたまっていた。上司が否やを言うはずもなかった。

 昭和45年6月3日の夕、僅かばかりの金と寝袋を持った私は,とくに目的を定めず,たまたま来た列車に飛び乗った。
 長岡駅を経て直江津駅に降りたときはすでに午後10時を回っていた。もっと先へ行くには,たまたま無計画にもっていたお金が乏しかったせいである。
 私はそこから,深夜の北国街道を徒歩で北上し始めた。ジョギングで鍛えた足に自信はあったが,これも無計画で出たので,履いていたのは「サンダル」であった。そのサンダルが,早足の甲に食い込み,痛みを感じ始めたころ,米山大橋を渡りきっていた。下は日本海の断崖、その崖の平らなところで寝袋に入り,一夜を明かしたのである。
 朝になって自分の足を見ると、紫色に腫れ上がっていた。3年間に精神は充分痛めた。今度は肉体を痛めてやろう。そんな、ある意味自棄的な気分もあって、ろくに手当てもしないまま、途中、駐在巡査の不信尋問を受けたりしながら、柏崎市荒浜海岸に着いたのは10時ころか,私はここで休息し,充分に日本海の風景を堪能した。海の前に小さな自分を投げ出す。やるせないながら,三年間の追い詰められた精神のはじめての休息であった。
 午後2時過ぎ,出雲崎町。ここは良寛和尚誕生の地である。そして私の家の家系伝説では、江戸時代,私の先祖はこの町で宮大工をしていたと言う。良寛和尚の史跡をあれこれ尋ねて,2日目は良寛堂の近くで野宿。

 私がここで良寛の史跡を尋ねたこと,これは後で述べる私の転機に重要な意味を持っていた。私が巧まずしていたことは,すでにして仏の大きな計らいの中にあったことが,分かるのである。それは「西遊記」の孫悟空が結局は釈迦の手の中で跳ね回っていたことと同じことであった。

 次の日、足はますます痛んだ。サンダルの鼻緒がすれて、血さえにじんでいた。足を引きずりながら弥彦神社を参拝したのは、すでに昼過ぎであった。夕方,吉田町の゛しずえちゃんの店に顔を出したときは,いささか汗臭かったと思う。しずえちゃんは私の足の腫れと、流れ乾いた血が埃にまみれているのを見てそのわけを聞いたけれど,私の矜持として,しずいちゃんと別れた後の我ながら醜い恋のことなど、とても「しずえちゃん}に語る気はしなかったのである。
 この旅はここで終わった。吉田町で1泊し,4日目に汽車に乗って帰ってきた。心に重荷を負ったものには文字通り「山河慟哭」の旅と言えたかもしれない。しかしこれが、「ほとけ」が私のために計らった次の段階への布石であったことは、これから書くことで理解していただけるだろう。それは一見それとわからない、「偶然」と言う衣をまとって現れた。

 旅から帰った私ははっきりと家を継ぐ決断をし,仕事の上からも不便であり,もともとが村にとっては「よそもの」の一族であったので、なにかしらしっくりいかない村を去る決心をした。その、家を移転する話を東京にいる3人の兄に相談するべく上京したのは旅から帰って1ヶ月目の昭和45年7月3日であった。
 そして翌7月4日運命の日が訪れた。
 何気なく立ち寄った書店で見つけた紀野先生の本「大悲風のごとく」立ち読みして見た序文にこうあった。

    −毎月一回,第一土曜日の午後におこなわれるこの講義は、五年目の今もなお依然として・・・・

 私は第一土曜日という,まさに当日の朝にこの本を見つけたことがとても偶然とは思えなかった。仏のはからいというより,もっと強く促す力を感じたのである。
 思えば最初に紀野先生の本「禅ー現代に生きるもの」に接したの昭和四十一年だから,すでに四年が経っていた。その間,おりにふれて紀野先生の著書を手に入れ、読むたびに一度逢いたいと思っていたのであるが,咲子さんへの心の葛藤に薄汚れた自分を恥じて断念していたのであった。しかし、−−今こそ逢わなければならない。

 私は直ちに先生のお宅に電話をして会場と時間をうかがい、台東区谷中の全生庵に駆けつけたのであった。
午後一時半に始まった「歎異抄に学ぶ」と題した講話は、私は今でも私一人のために語られたと思っている。題名からして親鸞上人の話のはずが,その時間のほとんどが良寛和尚の話に費やされたのであった。
 私は一ヶ月ばかり前良寛和尚ゆかりの地をめぐり、話に出てくる中之口川にしばしたたずんだばかりなので,とくにその感を深くしたのであった。ここに先生の著書「大悲風のごとく」にある同じ話を先生には無断ながら,そして少し長くはあるが引用させていただきたいと思う。

 ーこの有願が死ぬ前に、三輪左一という有願の弟子も死んだ。良寛さんは気の毒な人で,自分の弟子のようにかわいがっていた左一という人と、この有願の二人を相次いで亡くしたのである。(中略)
 ー良寛さんのような禅の修行をした立派なお坊さまでも、三輪左一を亡くし、有願を亡くすと,どこかで会いはしないかと思って迷い出す。これは迷いであるが,人間の迷いの中でも,ずいぶん美しい迷いだとわたしは思う。しかし、迷いは迷いなのである。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略線、筆者)
 良寛さんは心のやさしい詩人肌の人であるから,そういう迷いをなかなか断ち切ることができなかったようである。そんなことばかれしているうちに良寛さんは病気になってたおれた。それからだいぶたって、良寛さんはついに立ち上がる。その立ち上がる詩が、「病起」である。
     

一身寥々耽枕衾
一身りょうりょう、ちんきんにふける

夢魂幾回逐勝遊
夢魂、いく回か勝遊をおう

今朝病起江上立
今朝、病より起きて江上に立てば

無限桃花逐水流
無限の桃花、水をおうて流る

 良寛さんはずっと病気であった。もう、友達は死んでひとりもいない。ひとりぼっちである。友とするものは枕とふとんだけであった。寝床についたっきりであったということである。病気の床の中で、夢を見た。夢の中で魂は、幾回か勝遊を逐うた。勝遊というのは、景色の美しいところである。つまりそれは、佐一や有願とつき合っていた日々のことをさしている。思い出すたびに,心があたたまるようなあの思い出の日々のことをさしている。夢の中で、良寛さんは、なつかしい佐一や有願にあってばかりいた。ところが、今朝,初めて病より起きた。病気が治ったのである。病より起きたということは、体の病から立ち直ったと同時に,心の病からも立ち直ったことをさしている。
 三輪佐一や有願の魂ばかりを追いかけて歩くのは、これは病である。それに気がつき,そこからかれは立ち上がるのである。そして、中之口川のほとりに出てゆく。もはや春である。中之口川いっぱいに桃の花びらが浮かんでは流れ,流れてはまた浮かぶ。(中略)川が桃の花か、桃の花が川かというぐらい、いっぱい花びらが浮かんでいる。この風光を良寛さんは土手の上にたって、見わたしている。
 「川」は人生である。東洋人の詩で「川」ということばがでてくると、それはいつも人生を指している。この人生には花びらがいっぱいだということである。仏教の詩では、「花びら」と言うと、人間のいのちをさしている。すると、この人生いっぱいにいのちが充満しているということになる。そのありさまを良寛さんは静かに、いま見下ろしているのである。
 つまり、良寛さんは,一つや二つの花びら、佐一や有願のいのちだけを見ているのが人生ではなくて、自分のみなければならぬいのちが無数にあるということを、この中之口川に浮かんだ桃の花びらから感じているのである。これは仏の境地である。一つや二つの花びらにとらわれず、人生という,川全体をかれは見下ろしている。良寛さんは今やこういう境地へ入っていかれるのである。  (大悲風のごとくー花の命)より

 私は茫然自失の状態に置かれた。咲子さんと自分の命だけにこだわり,否,自分の心の完成だけにこだわり,私を取り巻く多くの命のことを忘れていたことが、私を卑小に追い詰めたことに、今こそはっきり気がついたのである。それは頭で考えるようなまどろっこしいものではなく、より直接に私の中に入ってきたのであった。このとき、次の先生の言葉が白刃のごとく私を両断した。

 「釈尊は悟りを開かれたときこう言われた『暁の明星出現のとき、我と大地有情と皆成道す』と、つまり、人間も,鳥も,花も釈尊の悟りと同時にすぺて悟りを開いたのである。我々はすでに悟っているのである。それに気がつかないのは、我々が凡夫の目で物事を見ているせいである。目を開けば見えるのに,自分で目を閉じているのである。悟っていることを悟らなければならない。

 私は激しく震えた。3年間私の上を覆っていた雲はすでになかった。生まれる以前の,知識も偏見も小ざかしさもない,すべてがありのままにあり,ありのままに見える世界がそこにあった。ややあって,思わず「ああ・・・」ともらした嘆声は、まったく新しく生まれた私の産声であった。
 蝉が脱皮した直後に見る世界はこうであろうか。あるいは、死後抜け出した魂が最初に見る世界はこうであろうか。見るものすべてが新鮮な世界であった。
 講義が終わって先生にお目にかかり,お礼を申し上げたとき,
 「ほかに聞いてみたいことはないか」と問われたけれど,
 「今のお話ですべての疑問が氷解しました。もうなにもありません」
と答えたのである。
    「常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)常に悲しみを懐いて心ついに醒悟する」
 かっての日、紀野先生の本から学んだ経典の言葉が、ただ実感としてあった。
 そしてこの日先生からいただいた「ものを描くことが仕事なら,描くことの中に仏法を行じなさい」という言葉が、昔は染色デザイナー、今は絵仏師としての私の中に生きている。これも先生の言葉、
    −生きよう、躍るが如くに
の意気込みで私は十日町に帰ってきた。

 昭和46年2月、咲子さんは母上が病気で亡くなったため,1人娘でもあったので、父上の世話をしなければならないので故郷に帰るという。かくて、あれほど私を悩ました設計課の男も失恋したわけであるが,私にはもうどうでもよいことになっていた。何よりも,彼女への恋心を,三年間、彼女にも誰にも分からせることなく,私の中に押さえ込み,ついに秘し通した私の阿修羅地獄の時代は,こうしてここに完全に終わった。

 2月28日、咲子さんが故郷に帰る前の日、私は吉田町に゛しずえちゃんを訪ねた。昭和38年から46年までの苦痛に満ちた青春に終止符を打つためであった。しずえちゃんと咲子さん。この2人の女性と紀野先生なしに私の青春は語れず,したがってそれ以降の生き方も語れないのである。。
 本来はなつかしいはずの越後平野、うれしいはずの゜しずえちゃんとの再会も,もう私に何の感興も呼び起こさなかった。私は確信を持って私の心に終止符を打った.終わったのだ・・・・・・と。

 今思うと、しずえちゃんは光として、咲子さんは影として、青春期の体験として必要な両極端であった。これほどくっきりとした明暗は無かったであろう。私は自分の性格上やむをえないことながら、相次いでこのことを体験したことによって、浮ついた青春でなく、少なくとも物事を思索する青春をおくることができたのである。

 この日から、否,それ依然,紀野先生の講義を受けた後から私の性格は一変した.悪く言う人は攻撃的と言うが,諸事において一歩を踏み出して考え,行動するようになったのである。
    「泣こよかひっ飛べ」
    「生きよう躍るが如くに」
    「人間はどんな人でも侮ってはいけないよ,人間は化けることがあるんだよ」(祖母の言葉)
 こうして私は多くの人から言葉をいただき,そして生かされている。言葉は魂である。私は今、心のそこからそう思う。
出雲崎良寛和尚誕生の地
咲子さん(無断使用ゆえにモザイク処理)
    恋獄(れんごく)
          
−昭和44年ー
       春の夜
淋しさは 春の夜にある
せせらぎの方
(かた) 投げた小石が
闇に吸われて 音だけ返る
それだけで 増す淋しさは

  







 
      秋の夜
月明かり ススキが揺れて
さざなみの方 投げた茱
(ぐみ)の実
浮き沈み 恋獄三年
石の椅子 夜露に冷えて


   ある日
      −昭和45年5月15日ー
石垣に 幾度も幾度も
投げた小石が 跳ね返る

 −苛立ちよ 嫉妬の想いよ消え失せろ

再び投げた 大きな石の
音の重さが 粘りつくのだ
    今初夏なれば
      
−昭和45年5月18日ー

今初夏なれば
想いには 重い陽光
陰鬱に 影増す緑

我が身また 人生の初夏
初夏なるに 身を狂わせる
想いにうめく いたずらな日々

  ・・・・・・・・・・・・・・・








今初夏なれば
想いには 重い喚声
子供らよ 沢蟹追うか

我が身また 人生の初夏
選びたる 道の運命
(さだめ)
たどたどと 転(まろび)つつ行く

片割れ貝
    (柏崎市荒浜海岸にて)
         ー昭和45年6月4日ー

さびついた カンカラのみが
荒浜の 砂に埋もれて
拾えどひろえど 片割れ貝を
合わぬと知りつつ 合わせる私





荒浜にて
     (柏崎市荒浜海岸にて)
        
ー昭和45年6月4日ー
波のように
   砂に涙を
      吸わせたら
  ああ・・・ どんなにすっきりするだろう

身体のうちに
   涙こんなに
      あふれていても
  外には 少しも流れてくれない




愛があり
   憎しみがあり
      二つの心の争いを
  見つめる心 どれが私の心だろうか

風にちぎれる
   心はいらない  
      吐息にのって
  防風林の 果てに飛び去れ


   闇の褥(しとね)
    
ー昭和45年10月30日ー

君への心の疼きではない
ましてや虫歯の痛みでもない
目覚めとともに忘れた夢を
思い出すこともあるまい










私をつつむ闇の褥は音もなく
天地宇宙に遍満し
愛も憎みも距離もなく
君をもつつみすべてに及ぶ


   遥かに遠い
        
 −昭和45年8月30日ー

雨だれの音
心にしみて
転々とする 長い夜には
水底に住む 山椒魚は
私のように 憂鬱だろうか
どこの祭りか 花火の音が
・・・・・・・・・ 遥かに遠い








暗闇の夜の








布団は重い
暁ない恋 想いも重い
時進むべき 時計の音が
逆戻りさす 思い出ばかり
いつだった あの日の二人
・・・・・・・ 遥かに遠い
   愛(かな)しみ
            
−昭和45年9月7日ー
いつとも知れないうちに
朧月のようにさりげなく
落ち葉のようにひっそりと
あなたの裡
(うち)をあなたの外を
つつみながらもそれさえ忘れる
そんな大きな私になりたい

いつとも知れないうちに
戻れなくなった二人の心
愛と憎しみ卍巴
(まんじともえ)と入れ替わる
心というもの見尽しました
誰もその最初のときに
こうなることとは思わなかった





いつとも知れないうちに
変わったものをまた変えるのは
いつとも知れないときなどを
待ってるだけでは駄目なのですね
こだわることさえ捨ててしまえば
心は別れていないのですね

いつといえば今というとき
愛憎二つに別れた心を
別れたのでないもともと一つと
観念しきって知りましたた
だしみじみと命というもの
(かな)しいものと知りました
    有り難う さようなら
             
 ー昭和45年2月28日ー
真実暗い 世界を知って
真実明るい 世界を知った
僅かに射し込む 光を知って
自ずと流れる 涙も知った

真実を見つめることは
とても孤独な寒いことです
まことの強さはそこから生まれ
まことのやさしさそこから生まれる

君との出会いで 孤独の寒さも命の深さも
動くことない 真実の塊さえも
確かに手に取り 見つめてみました
有り難う そして・・・さようなら
     まばゆく光る
             ー昭和46年2月ー
吸殻を
残雪に捨て
揺らめき 煙る細い紫

雪融ける 燃えた分だけ
解ける雪 吸殻消した

すべてが 不離で一に帰す
基点0の プラスとマイナス

愛と憎に わかれた心の
あの日の 答えはここにある







こんなに 身近にあったのか
こんなに 普通のことだったのか

君のこと 終わる今ごろ
残された 問題とけた

幸せあれ 君のこれからに
残雪が まばゆく光る
          新しい旅
               ー昭和46年3月ー
さざ波の 心を抱いて
永久(とこしえ)の前 迷い歩いた
振り向けば 枯れ草ばかり
羊腸極(ようちょうきわ) 幾曲がり道
山河慟哭(さんがどうこく) そのままの道








 
淋しさが 極まるときに
開け来た 寂光のとき
見渡せば 洋々として
新しい旅 私を招く
山河微笑(みしょう) 待ってるように




新しい出発
 咲子さんが去り,しずえちゃんへの想いに終止符を打って4ヶ月後,私は思い出の柏崎市の荒浜海岸を訪れていた。その横には現在の妻がいた。
 こう書くと,ー何とまぁ・・・と思う人がいるかもしれない.その経緯はこうである。

 咲子さんとの事は私が終始私の心の中に秘し隠し,決して表に出すことなく終わったことは前記のとおりである。そして、2月末日彼女は去った。同年4月,妻になる少女は中卒で入社し,当時、羽織と留袖のデザインをしていた私のところに配属された。
 私の部下はこれで8人になった。それから約1ヶ月ほどして,私が5キロほど離れた自宅から出社してみると,とんでもないことになっていた。会う人会う人が,「・・・と結婚するんだって?」と私に聞く.面食らった私がわけを問うと、「・・・」が独身女子寮と会社中に,
 「あの人と私は結婚するのだから,誰も手を出してはならない」
と宣言して回っていると言う。その奇襲攻撃に,密かに私に好意を懐いてくれていたらしい2〜3の女性も恐れをなして手を引いたという。
 女性の勢力の強い会社で、こんな噂が既定の事実化をしてしまっては,もはや網にかかった魚で,絶体絶命である。
 ーーーやんぬるかな,私は腹を決めたのであるが,15歳の彼女と23歳の私とでは,第一まだ法律も許さない。
 「お前なぁ、せめて定時制高校を卒業するまで待ちなさい」そのとき私が彼女に言った言葉であった。
 結局彼女は定時制を1年残して退学し,19歳のとき、会社を辞めて染色デザイナーとなっていた私のところに来てしまった。成人式には私のところから行ったことになる。

 こうして,最後は笑い話のように彼女に絡めとられて私の青春は終わった。
 今ここで三つの恋の形を見るとき,私という人間を作るのには、得恋よりも失恋のほうがためになったことは論を待たない。それは、いやでもそこで立ち止まり,私に人生を深く考えることを要求したからである。
       浜昼顔の花のところで
            (未来の妻に)
                −昭和46年6月ー
やがて君は 私のもとに来るという
それもいい そうしていいときに私もなった
君のその素直な心は 誰しもが認めるところ
私が苦心し得たものを 君は自然に持っている

一度君にも見せておきたい この柏崎荒浜海岸
その昔道に迷った私の姿 何度かここに現れたのだ
流れることない涙を流し 無声で慟哭した場所は
今君が座っているとこ
            浜昼顔の花のところだ








何度かここに来たけれど 花は目に入らなかった
風と砂と缶ガラと 埋もれた貝と波だけの
寒さに凍えた青春と 過ぎ去った人々のこと
この砂浜に埋めたものを ただ一度だけ君に語ろう

君が好いと認めてくれた 私のすべては
あの人々が私にくれた 私は何にも負けなくなった
だから今君のこと 何者からでも守ってやれる
だから今 君の心を請けられる
            浜昼顔の花のところで

柏崎市荒浜海岸(遠景の山は(米山未来の妻
弥彦神社にて現在も妻です
それから
絵羽織(遠州椿)昔の作品 道行コート(菊の園)
 昭和49年8月30日、某織物会社を退社した私は、染色デザイナーとして独立した。実はその3年前に退社を申し出ていたのであるが、後継者を育ててからにしてもらいたいということで延び延びになっていたのであった。
 前に書いたように、私は入社当初に会社から冷遇された男である。性格から、経営陣にもはっきりと正面から物を言うためでもあったろう。面白い男と可愛がられはしたが、社内の出世コースからは除外された。私が与えられたのは、課の中の1グループの責任者というだけのものだった。
そんな私のところに集まってきたのは、社の中でもアウトロー的な、一癖あるもてあまし者が多かった、「あの男は、(女は)竹内のところにやってしまえば問題は起こさないだろう」そんな定評ができていた。また私も進んでそれを受けいれた面もある。言ってみれば、私のグループは会社内の梁山泊であった。個性の強すぎ面々は、私が退社した後にグループを率いるものがいなかった。人事部長はこう放言した。
 「君の部下を8人全部辞めさせても、君は辞めさせない」と。
 私をその初期、あれだけ冷遇した人事部長に、私はついにこの一言を吐かせた。
 
 「人間はどんな人でも侮ってはいけないよ,人間は化けることがあるんだよ」という祖母の言葉はここに実を結んだのである。
 私が入社したばかりの冷遇されていた時期、そこに「しずえちゃん」の存在がなかったなら、とうに会社を辞めていたことだろう。その存在は、ここまで大きかったのであった。

 私は着尺図案から出発して、中振袖、四つ身、八つ身(子供の着物)、を経て最後には、絵羽織、留袖を担当した.やらなかったのは、カーペットと絣だけであった。 その最後に担当した絵羽織、留袖のころ、預かった8人の部下に1時間当て指導していると、それだけで就業時間は終わってしまう。難しい仕事だけは私のところに残ることになる。私はそれまでしていたジョギングも剣道も、バンドも辞めて残業せざるを得なかった。
 暖房も消えた冬の夜など、毛布をかむって午後10時まで仕事をし、五キロ離れた家に帰ると時計は11時を回っていた。それでも間に合わないときは200畳はある広い部室に仮眠して、翌朝4時から仕事にかかった。こんな会社にとって便利な男が退社してしまったなら、それは会社も困ったであろうと思う。さまざまな説得を受けた後、半ば嘱託の形で、会社の仕事を優先してすることで、晴れて退社したのである。
そして翌昭和50年、かねて婚約という形であった妻が、結婚退社をして私のもとに来た。私は27歳、妻は19歳の春であった。独立後の私の仕事も多忙であったので、妻を退社させ、仕事を手伝わせることにしたのである.

 昭和55年頃から、織物産業は、構造不況が表に出始め、倒産の嵐が吹き荒れてきた。前後して、「デザイナーの会」を作ろうと私にもち掛ける者があった。そして7人余り集まり、私が幹事として規約を作ることになり、さて発表というとき、最初の発案者が逃げ出した。所属している会社と、すでにあった別の会の圧力に屈したのである。つづいて強気だった者が次々逃げ出して、すべての責任が私に押し付けられた。「竹内が企画の張本人だ」というわけである。
 思えば、出処進退に責任を持たないやからほどあさましい者はない。私は、そうしたものでもあろうかと、最後は沈黙で報いた。
 私が以前勤めていた会社も、100人からの人員整理をすることになり、倒産の噂におびえた多くのデザイナーが仕事の依頼を断った。困り果てた会社は私のところに泣きついてきた。私はそれまで、会社にいたときのように、羽織と留袖を主体にしていたのであるが、昔取った杵柄で、着尺、中振袖まで手がけるようになった。
 やがて会社は、ある一部上場の大手企業に身売りして奇跡的にもちなおした。そして私はかっての同僚のデザイナーに身勝手な非難を受けることとなった。いわく「仲間がしていた中振袖や着尺の仕事を横取りした」と、何ともアホらしい話である。
 私にしてもその会社は倒産するやも知れないと思っていた。あまりにもでたらめな、会社の利益を分け取りする重役の、同族会社特有の弊害を、長い間、目の当たりにしていたためである。しかし、曲がりなりにも自分が9年間いた会社が、誰も仕事をしてくれなくなった、どうかよろしくといわれてみれば、不安を押さえて、6ヶ月先、1年先の約束手形で仕事を引き受けたのである。
 会社が持ち直したのを見て、それまで逃げていたデザイナーはぞろぞろ帰ってきた。とたんに私のところへ頭を下げに来た担当者の態度が豹変し、私が会社に行っても挨拶さえしなくなった。
 これが人間という生き物が持っているあさましい一面である。私は4歳になったばかりのときに父が急死し、それ以前と以後に村人が我が家に取った態度等、人間が変節する、その一面を見なれていたので、とくに不平を言うことなく見ていたけれど、あれやこれやで、すっかり染色デザイナーの仕事に嫌気が差してしまった。
 狭い業界、狭い地域、そこから来る狭い人の心。とても私がすめるところではないと思ったのであった。
 昭和57年。34歳になった。このまま一生を終わりたくないという気持ちはあっても、何をしていいのか思い及ばなかった。何か生きた証しになる仕事はないか。これまで生きてきて人の心の隅々まで見てきた私に、動かぬ真実というものがあるということを植え付ける仕事はないか。そして・・・。

 昭和57年2月のある日、数日前から新聞等で、19世紀最後の惑星直列があると報道されていた。東から西に、惑星が一直線に並ぶのだという。星座のことなどよく知らないけれど、もともと星を見るのが好きな私は午前2時頃それを見ていた。地面一体は雪国の冬のことであり白一色、凍てつく空は深かった。そのとき突然私の中に湧き上がるものがあった。「そうだ仏画を描こう」それを私は「啓示」と受け止めたのである。

 さて、仏画を描くといっても、それまでは着物のデザインという仕事柄、植物こそ写生はしてきたが、人体デッサンなど、画家になろうと上京した昔から長く遠ざかっていた。改めて基本から取り組まなければならない。また、、20年近く続けてきたデザインという癖も払拭しなければならなかった。
 それ以上の困難は、それが仕事である以上、販売ルートを開拓する事だった。それまでひとつの会社内に安住し、独立してからさえその延長線上にいた私には、外交などという分野は一番苦手とするところである。私には、有力なつても当てもなかったのである。もし私が、高校、大学でも卒業していたなら、その方面から横のつながりができたであろうが、ないものは自分で作るよりほかないのである。また資金は、永い不況産業を相手にしているうち、そこそこあった蓄えはいつのまにか取り崩し、すでに底をついていた。・・・無謀な賭け、そうまさに背水の陣の無謀な賭けであった。
 デザイナー仲間は「腕がもったいない」と呆れ顔だった。後年その同じデザイナーが、「着物産業はもうおしまいだ。君はいいときに逃げた。うらやましいよ」と言ったが、そこが「泣こよかひっ飛べ」である。私は逃げたのではない。挑戦したのである。
 「啓示」を受けた次の日から、「今日から私は絵仏師である」と宣言し、この仕事を始めたのである。
 デザインをしてくれという要望はまだかなりあった。しかし私はそのすべてを断った。二足のわらじを履くような、器用な生き方ができない自分をよく知っていたからであるし、そんな甘い考えで達成できる道と思わなかったせいである。
 この私の行動を理解しささえてくれたのは、母と妻、そして妻の実家だけであった。私の兄弟さえ始めはそっぽを向いたのである。
 当然のことながら生活は逼迫した。しかし私は何が何でも、母と妻、そして3人の子供を抱えて生き抜かなければならなかった。私はその間に、胃潰瘍、そしてその薬からきた肝臓病に悩まされながら文字通り死に物狂いの働きをした。

 人は真正面に仏と対峙し、仏の方向を向いている限り、かならず冥々の加護を受けるものである。あらゆる努力をしながらも、本当にどうしょうもなく追い詰められたとき、考えてもいなかった方向から、いつも不思議な助けがあった。私は、おおいなる「いのち」に、生かされていることを感じ、手を合わせざるを得なかった。

 貧しければ、その人がどんなに内面に豊かなものを持っていようとも、人間というものは悲しいもので、優越感から人を貶め、馬鹿にしようとする。朝、忙しいのを口実に自分の子供の食事さえろくに配慮しない。子供が学校から帰ってきて、他人のうちに夜まで遊ばせてもらっても、行きずりの挨拶さえできない親、そういえ親が陰で私の貧しさを笑った。
 私は子供のときから人間のそういうことになれていたので、物事の価値観と言うものを、妻とよく話し合ったものである。
そうした思いも含めて、私は私の仏画を深め得たと思う。
 それだけ貧しくても私が家内を仕事に出さないことを不思議に思う人もいた。しかし私は、子供の小さいときは母親は子供の傍らにいて、生き物としての基本を教えることは動物でさえ行う自然のことであると答えたものである。

 私は今の世の中は、末法の世ゆえに、物事の判断が転倒していると思っている。そしてけじめと言うものがなさ過ぎることが多くの犯罪の元だと思っている。
 親は親たれ。先生は先生たれ。同時に子供は子供たれ。生徒は生徒たれ。
 強者の論理が一世をおおうとき、悲鳴の変わりに人が神仏の名を唱えるような社会に、私は立ちふさがりたいと思う。神仏の名を唱えるときは、感謝の念だけのそんな世の中に、たとえ微力でも尽くしたい。

作仏(さぶつ





仏を描くということは
人に生かされるということです
人に生かされるということは
仏に生かされるということです
   かくて
一仏一仏
一人一人に合掌する
   それが私の作仏です



この長い物語を最後まで読んでいただいた方々に深く御礼申し上げます。
私の体験談が、いささかでも皆様の人生を生きることに役立ちますなら、望外のの幸せです。読後感を掲示板に頂けましたなら有難く存じます。
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